TextAD
無料
-
出会い
-
花
-
キャッシング
私の好きな和歌
このページは楽天CGギャラリーの日記に掲載した記事ですが、放っておくのも勿体無いのでちょっと手直ししてアップしました。
額田王と恋歌
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
むらさきのにほえる妹を憎くあらば人妻ゆゑに吾恋ひめやも
別にロマンス小説を読みすぎて頭が変になったわけではありません。
有名な和歌ですよね〜。いまさら説明もいらないと思いますが・・・額田王の詠った歌に大海人皇子が返歌しました。この和歌、結構好きです。
これは昨日、小橘が観賞してきた演劇を考えているうちにふっ、と思い出したんですけど・・・。 宝塚の「我が愛は山の彼方に」も悲恋でしたが・・・この額田王と大海人皇子のロマンスはどうなんでしょう・・・悲恋まではいかないかな。
そういえば、宝塚にも額田王をめぐる中大兄皇子と大海人皇子との物語「あかねさす紫の花」という演目がありました。この和歌に曲をつけて歌っていましたね〜。
額田王の恋歌はこちらの和歌の方が好き。
君待つとわが恋ひ居ればわが宿のすだれ動かし秋の風吹く
ちなみに本館には女流和歌集というページもあります。
http://www.geocities.jp/hanatatibana2/wakasu/wakasu.html
大伴坂上郎女と恋歌
恋ひ恋ひてあへる時だに美しきこと尽くしてよ長くと思わば
黒髪に白髪交り老ゆるまでかかる恋にはいまだあはなくに
どちらの恋歌も大伴坂上郎女の作です。
「恋ひ恋ひ・・」の方は、その昔、木原敏江先生の漫画ではじめて知った恋歌です〜。 とても印象に残っていまして、その後、大伴坂上郎女の作だとわかりました。
大伴坂上郎女は大伴旅人の異母妹です。
源氏物語と和歌
年月を松にひかれてふる人に けふ鶯の初音きかせよ
またもや和歌のお話です。源氏物語には各段ごとに和歌が挿入されているのをご存知でしょうか。
これは「明石の姫君」について詠んだ和歌です。
「源氏物語考のページ」にも書きましたが、徳川家光の娘「千代姫」の嫁入り道具に「初音の調度」といわれる蒔絵のお道具類が残っています。
3歳になる娘の嫁入りに家光がもたせたものでした。「初音の調度」というのは「源氏物語」のこの和歌から取った名前でした。
ちなみに私のハンドルネーム「花橘」も「源氏物語」から取りました。
>参考和歌
「橘の香をなつかしみほととぎす 花散里を訪ねてぞとふ」 源氏
「人目なく荒れたる宿は橘の 花こそ軒のつまとなりけれ」
十市皇女と但馬皇女と悲傷歌
悲傷歌という和歌の分類があるそうです。はじめて知りました。
壬申の乱は十市皇女にとって夫と父との戦いでした。
どっちが勝利しても悲惨ですね・・・結局父大海人皇子が勝利して彼女は子供と一緒に父に引取られました。
高市の皇子とのロマンスは幼い頃からあったんでしようか・・・でも、夫を失っても皇子とは結婚できません。
その後、彼女は自殺したらしいです・・・その時、高市の皇子が彼女を想って詠んだ和歌が三首残っています。
その中のこの一首が一番好きかな・・・。
山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
(山吹の・・はなんでも黄泉の国を指すのだそうです。)
CGギャラリーからの十市皇女です。少々加工しました。
★高市の皇子の晩年の妃但馬皇女と穂積の皇子とのロマンス★
高市の皇子が十市皇女を忘れられなかったのか、年が離れすぎていたせいか・・・但馬皇女と穂積の皇子との間にロマンスが・・・。
その時の彼女の切ない胸のうちを詠んだ歌三首:
秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛くありとも
人言を繁み言痛み己が世にいまだ渡らぬ朝川渡る
後れ居て恋つつあらずは追いしかむ道のくまみに標結へわが背
その但馬皇女が亡くなった後で、雪の降る日に彼女の墓を望んで皇子が詠んだ悲傷歌
降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに
うーん、どちらも気の毒です。
ちなみに穂積の皇子は晩年、若い大伴坂上郎女を娶ったようです。
晩年というと年はいくつくらいだ・・・と、思いましたら40才ちょっとくらいですって・・・この時代、40才は晩年というのか・・・。
大伯皇女と大津皇子と挽歌
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(大津皇子)
これは大津皇子が処刑される時、磐余の池に鳴く鴨を見て涙を流して作った和歌です。享年24才、早すぎる死ですね・・・。 彼は天武天皇の第3皇子で眉目秀麗、文武両道・・・人々からとっても期待された皇子でした。 でも、天皇の崩御後、1ヶ月で謀反の罪で処刑されたのでした。
挽歌とは、もともと中国で葬送の際にうたった歌で人の死をいたむ歌なのだそうです。
同母の姉であった大伯皇女はたったひとりの弟である大津皇子を想って深く嘆き悲しみます。
うつそみの人なる我や明日よりは二上山を兄弟とわがみむ
神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに
当時、大伯皇女は伊勢の斎宮を務めていました。大津皇子は今生の別れかと思ったのか、危険を犯してこの姉に会いにいきました。 その弟を見送る時に詠んだ悲痛な思いが感じられる歌ニ首:
わが背子を大和へやるとさ夜ふけて暁露に吾が立ちぬれし
二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ
大伯皇女はその後15年を生きぬき、弟のライバル草壁皇子も早死にしたのをどんな気持ちでみていたのでしょう。
大津皇子の正妃の山辺皇女は皇子が処刑された時、髪を振り乱して夫のもとへかけ込み自ら命を断って後を追いました。
ホーム
[PR]
動画