スペイン王フェリペ2世の4人の妻たち
ポルトガル王女マリア・マヌエラと英国女王メアリー1世
スペイン王フェリペ2世には生涯4人の妻がいました。これからこの王様の私生活を覗いてみようと思います。
1543年、最初に結婚したのが、ポルトガルの王女で名をマリア・マヌエラといいました。
彼女の母はハプスブルグ家のカタリーナでカルロス5世の妹にあたりますので、従兄妹同士の結婚です。年は同い年の16才、
美人のマリア・マヌエラとの間にはドン・カルロスという息子が生まれました。
悲しいかな・・・このドン・カルロスは両親共に狂女王ファーナの孫であり、強くその血筋を引いてしまいました。
生まれつき狂気の徴候があり長ずるに及んで手がつけられなくなりました。もともと、その根はファーナの祖母イサベル1世の母であるポルトガル王女
イサベルからスペイン王室に狂気が運び込まれたといわれています。ポルトガル王女イサベルはカスチリア王ファン2世の後妻でした。この王妃は常軌を逸した
行動から徐々に精神を病んでいったようです。その血筋が孫のファーナへ受け継がれ、そのファーナの曾孫である
ドン・カルロスにまで受け継がれていったようです。彼は父王に対して謀反を企て捕らえられて獄死しました。享年23才でした。
マリア・マヌエラはドン・カルロスが生まれてすぐ王妃になる前に18才で亡くなりました。夫婦仲はよかったようです。彼女も後年の息子の姿を見ることなしに亡くなって
幸せだったと思います。 その後、フェリペ2世は1554年に英国女王メアリー1世と再婚しました。
新婦はなんと11才も年上でした。女王も初めは断ったようですが、説得されて承諾しました。一目見て彼女の方は若く男らしいフェリペを非常に気に入りましたが、彼の方は
随分年上で美しくもない妻に幻滅したようです。でも、賢明にもこの若い夫は分をわきまえ親切に接しました。
英国では、女王の夫としての立場でしたので、複雑な思いをもっていましたが、女王はとても深く彼を愛しました。
メアリー1世は子宮に疾患をもっていましたので、子供は授かりませんでした。
2回ほど、そのきざしがみえましたが、それは彼女の思い違いでした。妻の思い違いの想像妊娠に夫の方は嫌気がさしていました。
何かにつけて英国を留守にすることが多くなり、女王が亡くなってもフェリペは英国に戻ることはありませんでした。
女王の葬儀を執り行なったのは妹のエリザベスでした。よりによってフェリペ2世はこのエリザベス1世にも求婚しています。
メアリー1世は「ブラッディ・メアリー」と呼ばれますが、プロテスタントを多く虐殺しました。
彼女の母はアラゴンのキャサリンでフェリペの父カール5世の叔母にあたります。
メアリー1世は敬虔なカトリック教徒で、離婚された母の影響でアン・ブーリンやプロテスタントたちを憎んでいました。
キャサリン母娘は英国民からは深く同情されていましたが、メアリー1世として即位すると彼女は豹変してしまいました。
彼女の生い立ちには非常に同情する点もありましたが、それまでの復讐でもするかのように、プロテスタントたちを処刑しまくりました。
それは、フェリペ2世すら眉をひそめるほどでした。
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エリザベート・ド・ヴァロアとオーストリアのアンヌ
3人目の妻となったエリザベート・ド・ヴァロア
は最初ドン・カルロスのフィアンセでした。メアリー1世が亡くなったので、急遽その父であるフェリペ2世と結婚することになりました。
でも、考えようによっては狂人のドン・カルロスと結婚するよりは良かったかもしれません。現にフェリペ2世はこの若い妻を可愛がりました。18才も年下の
王妃との間には二人の王女が生まれました。このエリザベート王妃とドン・カルロスの悲恋を題材に「ドン・カルロス」というオペラがあります。
これは、ほとんど史実を無視したフィクションです。フェリペ2世の愛妾エボリの姫も出てきますが、ドン・カルロスに思いを寄せています。
この中のドン・カルロスはとても英雄に描かれていますが、実在のドン・カルロスは狂気の人でした。ただ、ドン・カルロスもエリザベート王妃も
22、3才くらいで亡くなっていますので悲劇に仕立てやすかったということでしょうか・・・。
獄死したドン・カルロスが殺されたのかはわかりませんが、王妃も同じく若くして亡くなっているので夫に殺害されたという噂がありました。
最後の王妃オーストリアのアンヌはフェリペ2世には姪になります。姉妹の中で一番美しかったと言われ、フェリペ2世も妹のエリザベート(フランス王シャルル9世と結婚)よりは
姉のアンヌの方と結婚したがったと言われてます。おまけに22才も年下です。どうも年を取ると若い女性と結婚したがるようですね。
彼女との間には数多くの子供たちが生まれましたが、血族結婚のためか虚弱な子たちばかりで、男の子は後のフェリペ3世しか育ちませんでした。
たった一人の後継ぎであったフェリペ3世ですが、勤勉な父フェリペ2世に似ず、スペイン・ハプスブルグ家を斜陽の王家へと導いて行きました。
4人の妻たちには次々に先立たれたフェリぺ2世ですが、壮大なエスコリアル修道院を建て若く美しい最後の王妃アンヌと静かに暮らしていました。
王妃が1580年に30才で亡くなると、その後18年間、この修道院宮殿の自室の狭い空間の中で、すべてを指図していました。
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